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伊與田連隊長、有り難うございました! [追悼]

令和5年4月6日夕刻に生起した宮古島沖陸自ヘリコプター航空事故関連で、坂本雄一第8師団長以下10名の尊い命が失われました。
陸自OBとしても本当に残念でかつ心が痛みました。
殊に宮古警備隊長であった伊與田雅一1等陸佐(いよた まさひと 陸将補に特別昇任)には滝川の第10即応機動連隊長時代に弊社企画のDVD作品全国発売に関して一方ならぬご厚情を賜りました。
かつて私の恩師でもある大林宣彦映画監督が3年前に逝去された時に当時マンダム化粧品が感謝の社告を発表したように、私はHAJIMEVISION代表として先ずは感謝のメッセージを発することが大切だと思いその様にしました。
また、伊與田様に撮影取材で1年間密着する間に感じたことがありました。
それは時として優しさや愛情を持って我々撮影陣に接して頂いたことでありました。1年間20回に渡る密着取材は多忙な連隊の演習訓練行事の運営に際しては余計な懸案事項ともなり、あるときは障害に感じたこともあったことでしょう。
しかしながらあらゆる困難状況にあっても部隊の真の姿を捉えようとする我々の撮影活動に対して常に必要な助言や様々な配慮をして頂きました。
かくして令和2年9月にDVD作品「令和の新戦力!!第10即応機動連隊(株アースゲート)」は弊社7作品目の全国発売としてリリースされることとなったのです。
今回別紙のような協賛活動に協力してくれた方にお二人、その動機についてお聞きしました。
① 山口市のK様
「国民の一人として慰霊碑建立に協力させて頂きます。」
K様は陸上自衛隊女性自衛官写真集についても10冊以上ご購入を賜り地元の図書館や地本の募集事務所に寄贈頂く等、本当に頭が下がる活動をしておられます。
②青森市のO隊員(3等陸曹 24歳)
「自分の立場が伊與田1佐の家族だったとしたらと考えた際に、残された家族はこの状況で何をされたら寂しさが和らぐかを考えた結果、プランAで協賛金含めて1万円を送りたいと思います。少しでも協力できたら嬉しいです。」
それぞれお伺いして本当に胸が熱くなりました。
引き続き皆様のご支援ご協力をよろしくお願い申し上げます。

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第3回ふるさとビデオ大賞 [追悼]


 25年前の映像ですが、北海道芦別市で開催された第3回ふるさとビデオ大賞で大賞を受賞した拙作「ふるさと・ひと夏のメモリーズ」と授賞式、大林監督の作品講評です。
 講評で大林監督はこのように述べられています。
 「大事なのは市民としての目、常識の持つ強さ、そして常識が少しだけ魅力的になることで持つ作品の偉大さ説得力…」
 「心に思うことの強さが無ければ作品は決して魅力を持ちません。どんなに技術をもってしても訴えるものはありません。あくまでも心を表現する事が大切です…」


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マンダムが大林宣彦映画監督を追悼 [追悼]

 (スポニチ2020.4.14第19面記事)
スポニチ/マンダム記事中.jpg

大林監督が若かりし頃手がけたCMは2千を越えるとか。
中でも印象深いのはやはりこれですね!
『MANDOM』
傾きかけた会社を建て直す契機となった経緯が、大林監督追悼の言葉として株式会社マンダムから発表されました。
https://www.mandom.co.jp/20200413/index.html
マンダム追悼文中.jpg

当時CM効果で商品も大ヒットし何と会社名がCMの翌年丹頂からマンダムになったそうです。発表されたメッセージはとても感慨深い内容です。
映像もYOU TUBEに有りました。ホントに懐かしい!!



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追悼〜大林宣彦映画監督との想い出 [追悼]

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 大林宣彦映画監督が昨夜亡くなられました。
 思えば平成7年の第3回芦別映画学校で大林校長からふるさとビデオ大賞を頂きました。
 その事が陸上自衛隊退官後の私の人生の道標となり現在の映像制作活動に繋がっております。
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 3年前の平成29年春。私が宝島社からDVD-BOOK「日本を守る陸上自衛隊部隊密着」を出版した際に大林監督から御祝いメッセージとしてお送り頂いたはがきです。(下記写真参照)
大林監督葉書文面480.jpg

内容を文のまま紹介いたします。

『芦別でのステキな思い出有り難うございます。また此の度はDVD-BOOKの出版お目出度うございます。…
日本国民が日本国のために何を行うか。その事を良く知るために自衛隊の活動があなたのような方によって紹介されるのはとても役立つと信じます。
3.11での活躍など正に国民の穏やかな日々創造のための自衛隊の皆様の活躍は目を見開かんばかりの有難い素晴らしいものでありました。
自衛隊と国民との関係がこれから次第に変化してゆきます。ヴィデオが映し出すマコトは、きっと私たちが間違いを犯さぬための美しき力となってくれるでしょう。
映像よ、心の瞳たれ…お目出度う…』

大林監督は幼少の頃に戦争を体験しておられますので、平和への思いはとても強いものがあったと思います。最近の作品群にも平和を希求するテーマが数多くあります。
従いまして、私がかつて奉職した自衛隊をテーマとする映像ドキュメンタリー作品を世に出すと言う大林監督への3年前の御報告も実は当時多少の躊躇もありました。
しかし、前述の御葉書の文面の通り、私の制作活動をしっかりと受け止めて頂き感想と激励を頂いたのです。

“映像よ、心の瞳たれ”

私は、この言葉を肝に銘じて、大林監督に習い、終生自分の信ずる映像制作に邁進したいと思います。


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故西田秀男氏を偲ぶ会 [追悼]

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 故西田秀男氏を偲ぶ会が9月30日(土)ホテルロイトン札幌で行われました。
 その行事の上映用DVD作品、展示用の写真パネルを担当しました。
 本来は御本人も参加してご長寿を祝う会であったのですが、西田秀男氏は8月10日に急逝されまして、このような形になってしまいました。誠に残念なことでした。
 御参会の皆様には映像や写真で自衛隊の大先輩である西田元陸将の生前のご活躍を偲んで頂きました。
 私は昨年8月、12月、そして本年2月と3回にわたり西田さんをインタビューさせて頂き、大正、昭和、そして平成の時代を超え、また旧陸軍かつ警察予備隊・保安隊・自衛隊に奉職された98年間の人生を西田さん自らの言葉で語る映像記録を作品として残す企画に携わらせてもらいました。
 これは映像作家としての本望でもあり、誠に名誉な事でありました。
 西田秀男先輩の御冥福をあらためて心よりお祈りいたします。

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 ↓西田さんのお人柄が偲ばれる遺品。伝説の「西田メモ」。主計少佐時代からの緻密なスケジュール管理の源。
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 制作したDVD(3枚組)は、この日上映された「インタビュー総集編」の他、「空挺取材編」「インタビュー未編集完全版&西田氏関連映像資料集」が収録されており、全編3時間に及ぶ稀少なる映像記録となっております。
 もし御関心のある方はご連絡下さい。info@hajimevision.com 090-8896-8876

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西田秀男氏の御逝去について [追悼]

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 かねてより療養中の大先輩西田秀男氏が8月10日夕刻亡くなられました。98歳でした。
大正8年鹿児島県国分に西田家の長男として出生。その後旧陸軍経理学校の第1期生として学んだのち満州のハイラルなどでご勤務され主計少佐として終戦を迎えられました。
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 戦後は昭和26年に警察予備隊に入隊。経理畑から方向を転じ第一線の空挺部隊を志し第1空挺団の前身となる第101空挺大隊長に。
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 その後、米国陸軍指揮幕僚大学や第82空挺師団など二度にわたる留学、第1空挺団副団長、第25普通科連隊長、第11師団幕僚長、同副師団長、冬季オリンピック札幌大会支援集団長、自衛隊体育学校長、そして陸将となり最後は関西補給処長で退官されました。
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 退官後、札幌パブリック警備保障株式会社を創業され、多くの自衛隊退職者の援護にも尽力されました。また、隊友会や郷友組織の、銃剣道連盟の要職も務められました。
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 私は、自衛隊、空挺の先輩であり、また人生の大先輩でもあります西田さんのヒストリービデオを依頼され制作中でありましたが、急遽、通夜と葬儀での上映映像を準備することとなりました。
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 ちなみに元陸上幕僚長の中谷正寛氏は甥にあたります。
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 西田さんのように旧陸軍と自衛隊双方を知る方がまた一人他界されました。その貴重なる体験談を残された我々に映像とインタビュー肉声で伝えるDVD制作に携われたことを心から光栄に思います。
 西田秀男さんのご冥福を心から お祈りいたします。

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陸自機LR2の墜落に思う。 [追悼]

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 この度の陸上自衛隊機LR2の墜落には、亡くなられた乗員、そして御家族のことを思いますと胸が痛みます。
 北海道における緊急患者空輸の際の遭難事故と言いますと確か平成6年のやはり道南の遊楽部岳に墜落した航空自衛隊千歳救難隊のUH-60Jが思い起こされました。その時も機長以下4名が亡くなりました。数年前に千歳救難隊の取材をさせて頂いたときに、隊の玄関を入った正面に亡くなった隊員たちを顕彰し事故を決して忘れずに教訓とするモニュメントボードを拝見しました。
 隊のモットーはThat others may live
 私の勝手な訳かも知れませんが、「他者のために生きる」献身的なspiritを表現したものだと思いました。
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 今回は、救援専門部隊ではありませんが、陸自の隊員たちもまた、助けなければとの一途な思いで函館を目指したことは間違いありません。
 空港を目前にしての不慮の遭難は無念の極みだったことでしょう。
 事故が起こった以上、そこには何らかの原因があると思われます。そこを究明して次に生かすことが亡くなった隊員たちの気持ちに報いることかと思います。
 地元紙、北海道新聞の5月16日朝刊31面に少し気になる関連記事がありました。遭難機の機長が一昨年の札幌での医療関係シンポジウムでの発言だそうです。
 「365日24時間待機している。使用する機体はLR2、一機のみ。横風に弱く、風速毎秒10メートルで運行が制限されてしまう。搬送はジェット機の方が適していると思う。」
 私は職種が違うので、航空科の専門分野の意見もお聞きできればと思います。
 亡くなられた4名の御冥福を心より祈念いたします。
 写真は、今年1月の年初編隊飛行訓練で撮影した当該機体です。北部方面航空隊の所有する機種のなかで唯一の固定翼機。塗装も民間機?かと間違いそうで妙に印象に残ったのを覚えております。以前のLRは国産でOD色塗装でしたが。
 追悼の意味を込めまして、LR2連絡偵察機の勇姿をトップ画面に掲載させて頂きます。

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防人の先達、佐藤登氏(96歳)の御逝去 [追悼]

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 在りし日の佐藤登氏(平成28年7月撮影 右は3男の茂氏)

 尊敬する防人(さきもり)の大先輩が5月1日朝、旅立たれました。
 御遺族のご了解を得て、ここに御逝去された故人の御紹介をさせていただきます。
 佐藤登氏(96歳)。
 陸軍士官学校第53期生、陸軍航空士官学校第95期生、陸軍百式司令部偵察機操縦士。
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 戦後、警察予備隊入隊。その後陸上自衛隊高射特科幹部として米国陸軍防空学校に留学。
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 1964年東京オリンピックにおいて選手村管財課長として国の大事業を陰で支える。
 一等陸佐で退官。その後は月寒忠霊塔奉賛会の役員などを務められました。
 特に、東京オリンピックと言う国の一大イベントに於いては選手村のD地区管理事務所長として各国の選手たちに対する献身的サポートを行い内外からの高い称賛を浴びたことは、おそらく御本人にとっても終生の誇りであり忘れ難き想い出でもあったと推測いたします。
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 「オリンピックと自衛隊(渡邉陽子著)」は、オリンピックを陰で支えた自衛隊のアナザーストーリーが見事に描かれていますが、その138ページには佐藤登(当時2佐)氏に関する記述があります。
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 私は7年前の「月寒忠霊塔追憶DVD」制作と昨年の二度に渡り佐藤登氏をインタビュー撮影させて頂きました。
 この貴重な映像記録は残された我々にとりましても、多くの教訓と今後への糧を与えてくれるに違いありません。
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 佐藤登氏の御冥福を心より祈念申し上げます。



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山崎豊子さん新潮文庫2500万部 [追悼]

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 写真は、先日の日刊紙に掲載されていた「新潮文庫」の広告です。
「痛かろうが、体力が落ちていこうが、小説を書くことしか能のない私である。戦争に生き残ったものの使命は、やはり死に逝くまで果たさねばならないのだ。」とあります。壮絶とも言える山崎豊子さんの言葉です。
 販売累計、白い巨塔590万部、華麗なる一族470万部、不毛地帯530万部、二つの祖国290万部、そして沈まぬ太陽660万部。総計何と2500万部!!
 正義を問うた社会派の巨星、山崎豊子さんの追悼広告です。by新潮社
 絶筆「約束の海」週刊新潮にて只今連載中。
 山崎豊子死してなお、我々に深い感動を与え続けてくれております…


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追悼 廣田泰悠さん [追悼]

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 大変お世話になった方が27日亡くなりました。本日告別式でした。
 元STVの廣田泰悠(やすなが)さんです。享年67歳。
 STVの現職カメラマン時代、ご自身もまさに「ビデオジャーナリスト」として素晴らしい作品を世に送り出し放送業界の数々の賞を受賞されました。
 その後、STV報道部長やマルチメディア室長を経て札幌映像プロダクション副社長もお務めになりました。
 80年代から90年代にかけてSTVビデオリポータークラブを通じて、廣田さんはクラブの事務局長として北海道のアマチュアビデオカメラマンを数多く育てて頂きました。
 私もその活動を通じてビデオ撮影編集に目覚め今日に至っております。
 1995年(平成7年)には、芦別で行われた大林宣彦映画学校ふるさとビデオで大賞をいただきましたが、そのとき作品応募を勧めて頂いたのが廣田氏でした。大賞を頂いた夜にみんなで飲んだのを思い出します。廣田さんにも我が事のように大変喜んで頂きました。

 2010年の7月にはDV-7研究会にもご来会頂き旧交を温めました。(中央:廣田泰悠さん)
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 大変懐かしい1996年に発刊されたSTVビデオリポータークラブの会報(下記写真)です。
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 懐かしく読み返してみますと、その中に、ビデオリポータークラブで腕を磨いて他局に投稿する人間が増えることを危惧するある会員の方の投稿が紹介されていました。そして廣田さんがそれに返信している部分がありました。以下抜粋して紹介します。

 (返信:廣田事務局長)
『(会員の方は)STVの社員でもないし素人なんだから、どこだって放送されれば嬉しいに決まっているよ。人は離れて行くかもしれないけれど事務局はSTVと会員とを繋ぐ接点でなきゃいけないと考えたんですよ。離れて行く人もいるかもしれないけれど前途が暗い訳では決してないヨ。ビデオ大賞だってやって良かった。まだまだ北海道には、知り合いたい人が沢山居るんだと言うことが分かったからネ。』
 
 作品には厳しい評価も沢山して頂いたんですが、とても心の広い包容力を持って私たちを教えて下さった廣田泰悠さん。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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